夙夜夢寐
閉め切った薄暗い部屋にケホケホと乾いた音が響く。何度目かの咳を吐き出すと、ぼんやりと脳裏に浮かんだのはひどく怒る録嗚未の顔だった。
そんなことを思いながら霞む目で架子床の天井を見つめると、木目がどこか怒った顔の録嗚未に見えてくる。
初雪が降り積もった前日。寒い雪の中、訓練と称した本気の雪合戦を軍長達と楽しんだ。それがとにかく楽しかった。あんなに全力で遊んだのはいつ振りだっただろうか。
しかし汗と雪で濡れた衣に、冷たい北風と舞い散る雪。風邪を引かない訳がない。
帰宅すると急いで熱い湯に浸かり、温かい生姜湯を飲んでいつもより着込んで床に入ったが、ギリギリでの予防に意味などほとんどなかった。
下がらぬ熱で朦朧としながら眠りについたが、ぼんやりと、しかしはっきりと覚えている。
この日はいつもと違う夢を見た。
どうして彼が出てくるのかわからない。夢の中の録嗚未はいつもの不機嫌そうな表情とは違い優しく笑う。
夢の中ならこんなにも優しくしてくれる。普段からもそうしてくれたらいいのに。
ふと、この笑う録嗚未の姿は自分の願望なのだと気付くと、急に特別な感情が次から次へと湧き上がってくる。正直そのような思いは一昨日の時点では全くと言っていいほどなかった。
王騎に命じられイヤイヤ自分を引き取ったあの日から、録嗚未との関係はそこまでいいと呼べるものではない。だから、きっとこの先、彼とは何も起こらない。
夢の中だから。そっと大きな手に触れる。
夢の中でだけ。少しだけ距離を縮める。
「起きたか」
「あ……て…………」
「お前が握って離さなかったんだよ」
呆れる顔は嘘を言っていない。夢の中だと思っていたのに、実際にも録嗚未の手を握っていた。慌てて手を離すと温もりがすうっと引いていき、追い打ちをかけるように胸がズキンと痛む。
「んなことよりどうだ、熱」
暗くて顔がよく見えないのか、録嗚未はぐいと身を乗り出し覗き込んだ。自分を庇い倒れた際の間近で見た録嗚未の顔を思い出し、さらに熱が上がったのが分かる。
「顔赤ぇぞ、本当に大丈夫か?」
誰のせいだと思っているのか。は渇く唇で必死に大丈夫だと言い、赤く火照る顔を隠すように布団を深くかぶった。目を閉じていれば寝たと思って部屋を出てくれるはず。そんな思いとは裏腹に、熱の原因はその場から動こうとはしない。
「やっぱり熱いだろ」
録嗚未の大きな手が、布団からかすかに出ていた額をすっぽりと覆う。冬の寒さで冷えているはずのその手は、ずいぶんと長くこの場にいたせいか、それともずっと手を握っていてくれたせいなのかとても温かく、さらに体温を上げてしまいそうで逃げるように思わず顔を反らした。
聞こえてしまうのではないかというほど、ドクンドクンと胸の鼓動が早く煩く鳴り、痛む頭にズキズキと響く。
「移してしまうと申し訳ないので……あの」
「あ? ああ、そうか」
まあ風邪なんてここ何年も引いてないけどなと録嗚未はぽつりとこぼし、自らの側に寄せていた火鉢に炭を焚べるとやっと席を立つ。
炊事場の隣にあるの部屋は、炕のおかげもあり上座である録嗚未の部屋よりも暖かい。録嗚未がなかなか部屋から出ようとしなかったのはそのせいだと思いながらも、は側にいてくれることが内心嬉しくて仕方がなかった。
「お薬を」
録嗚未が部屋を出ようとした頃合いを見計らっていたかのように、普段からの世話をする侍女が薬の他に小さな器を盆に乗せやって来た。
いつもなら見向きもしないのに、見慣れない器に目ざとく気付き録嗚未は首を傾げる。
「なんだこりゃ」
「桃膠と皂角米、それから雪燕を甘く煮たものです。様が以前、薬が苦くて飲めないと仰っていましたので」
蓋を開けるとほんのりと甘い桃の香りが湯気と共に立ち昇る。
「雪燕は先程鱗坊様が見舞いにいらした際にご持参されたものです。詫び……だとか」
「来るなと言ったのに……追い返したか」
「そう仰せつかっていましたので」
「よし」
二人の会話はよく聞こえなかったが、盆を手にして再び部屋に戻って来た録嗚未の姿を見て、は思わず小さく唸った。
「薬、飲めないのか」
「苦い、です……」
録嗚未は呆れた顔でを見ると、先程まで座っていた椅子に再びどかりと腰を下ろし、何を思ったのかおもむろに匙を手に取り自らの口に運ぶ。
「ーーっ……!! 甘ぇっ」
酒飲みの録嗚未にはこの甘さは耐えられなかったのか、まるで苦いものを食べた時のように眉間に皺を寄せ、慌てて水を飲み干した。
「ーーんだよこれ、甘過ぎんだろ!」
「薬を飲んだ後にいただくので……それくらいが丁度いいのです」
あまりにも真逆の反応をする録嗚未に、は不安になり鼻を鳴らして匂いを嗅いでみるが、やはり甘く美味しそうな香りが漂ってくる。
薬を飲むため起き上がろうと、身をよじり腕に力を入れるがうまく入らない。気が付いた録嗚未が素早く腕を回し体を支えると、先程よりも一段と大きく心臓が飛び跳ねた。
「録嗚未は女の扱いに不慣れなくせにモテる」と言っていたのは鱗坊だったか。今まで気にしたことも無かったが、意識し出してからはその理由がなんとなくだが理解出来るようになった。そんな録嗚未に胸をときめかせる女性達がこの光景を見たら、一体どう思うのだろうか。
慌てて乱れた衣の襟を直し、足元にかけていた上着を肩にかける。
薬を手に取り、はぁ、と一度だけ深く息を吐き出した。気休めに飲むにはこの漢方薬はあまりにも苦すぎる。薬片手にうじうじするの様子を見て、録嗚未は脚をゆすり苛立ち始めた。
「ほら、さっさと薬を飲め。飲んだらすぐにこのクソ甘ぇのを俺が飲ませてやる」
器を手に取り匙で掬いズイと近寄る。
「だい、じょぶ、あの、私の間合いで」
「こういう時は素直に甘えておくもんだろ」
そうじゃないと言いかけたが、色恋沙汰に疎い録嗚未に言っても理解されないだろう。
出かけた言葉をグッと飲み込み、意を決して勢いよく苦い薬を口に含み水で流し込む。口の中に残る苦味に顔を歪め、漢方の独特な臭いに咳き込むと、間髪入れずに匙が口元に運ばれる。
「吐くなよ……ゆっくり飲め」
言われた通り、ゆっくりと、それでいて豪快に差し出された匙にかぶりつく。桃膠と角米のふにふにとした食感、とろけるような雪燕がつるりと喉元を過ぎると、苦い薬の存在など無かったかのようにの顔が綻んだ。
先程までのどんよりとした顔とは違い、明らかに美味しそうに口に運ぶ様子を見て、録嗚未は気付かれないように小さく息を吐き出した。
「苦い薬も飲んだしさっさと寝ろ。明日にはきっと良くなる」
録嗚未は強引に寝かせて布団に押し込むと、風邪を引かせた詫びだとの手を握る。
「寝るまでここにいてやる」
「寝なかったら……」
布団から目元だけ覗かせて少しだけ意地悪ぽく尋ねると、
「力づくで寝かす」
にいっと不敵な笑みを浮かべて見せる。いつもの録嗚未だ。その一言になぜだか安心したは、だんだんと重たくなる瞼をゆっくりと下ろした。
夢じゃないのになぜだかいつもより優しい。風邪のせいならもうしばらく引いているのも悪くない。
それでもどうか、夢の中でだけは優しくして。
寝ても覚めても、想うのは貴方のことばかり。
しゅくやむび『夙夜夢寐』