山笑う
「ごめんなさい」
初めてあいつが発した言葉に、何ともいえぬ苛立ちを録嗚未は覚えた。
大人達に振り回されて、右も左も分からない土地に無理やり連れてこられた娘。それをどういうわけか、録嗚未が面倒を見ることになった。
言ってしまえば自分も被害者だ。坊主ならまだしも、一回りも下の、それも言葉のわからぬ小娘。
こういう物事には適材適所というものがある。最近子が産まれた隆国が預かるには負担が大き過ぎる。鱗坊は……論外だろう。干央と同金なら同じ年頃の子がいる。二人のうちどちらかに任せるのが妥当だろうと声を上げたが、一番身軽だというよく分からない理由で押し付けられてしまった。
殿に頼まれては、「はい」と答えるしか無いのだが。
先程まで、薄汚れた野良犬のような風貌だった娘だが、湯に入り新しい衣を着せてもらい、野良犬から外飼の飼い犬程度の見た目に変わった。
それでも衣から見える腕や脚は痩せ細っており、軽くひねり上げれば折れてしまいそう。
立つのもやっとなその様子に、思わず舌打ちをしてしまう。
こういう時はどうするのが正解なのだろうか。
手を握ればいいのか? 握った拍子に砕けてしまいそうだ。
腕を握って引っ張って行くか? 引っ張った拍子に腕が抜けてしまいそうだ。
「ガキ、ついて来い」
と言ったところで、言葉が分からない娘に伝わるわけが無い。
「……クソッ」
録嗚未はこの日いちばん小さな声で毒づくと、怯える娘を勢いよく抱きかかえる。
あまりにも突然だったせいか、それとも勢いが良すぎたせいか。娘の口から「ひゅっ」という空気が漏れ出た。すまないと思いつつも、この状況を他の奴――主に騰や鱗坊に見られては厄介だ。
震える手で必死にしがみ付いているのが、布越しからでも伝わってくる。あまりこの状況に置くのも不憫だと、録嗚未は一度娘を抱え直し、大股で宮殿を後にした。
録嗚未の屋敷は、王騎の宮殿を出てそう遠くはない場所にある。これは呼び出しがかかれば、すぐにでも飛んで行けるため――――というのは表向きの理由で、本当は殿の近くに少しでもいたいため。というのが今回は仇となった。
娘の預かり先の条件の一つに、『娘の足で殿の宮殿へ通える距離』というものがあった。そうだ、五人の中で俺の屋敷が一番近い。
過去を振り返らない男、録嗚未だったが、この時ばかりは過去の自分を深く憎んだ。
屋敷に着くと出迎えた使用人達は目を丸くして、主である録嗚未と、抱きかかえられ小さくなった見知らぬ娘を交互に何度も見る。
「なんだその顔は」
「いえ、いや……あの」
「言いたいことがあるならハッキリ言え」
使用人達は互いに顔を見合わせ、使用人頭が意を決して訊ねた。
「そちらは、その、ご息女……でしょうか」
ひとり身の男が年端も行かない娘を連れて帰って来た。となれば、どこぞの女に作らせた子。大多数の人間はそう考えるだろう。
「……なわけがあるか!」
録嗚未の罵声に、使用人達は一斉に仰け反る。
馬鹿も休み休み言えと怒鳴りつけ、録嗚未は娘を東の空き部屋に押し込んだ。
怯えたように隅へ身を寄せる姿を見て、胸の奥がわずかにざらつく。
それは、全ての人間を恐れているような目だった。
その目に映る自分が、まるで鬼か何かのように思えてくる。
気のせいだと思いたかった。だが、今の録嗚未がしてやれることなど、何もなかった。
その夜――。
鍛錬を終えて屋敷へ戻ったのは、月の高い頃だった。
いつもなら静まり返っているはずの中庭に、かすかな風の音が混じっていた。
普段中庭を突っ切り自室へとまっすぐ向かうのだが、不本意だが保護者として娘の様子を伺うのが正しいのだろう。
外廊下を渡り、娘に与えた部屋を覗く。
開け放たれた戸。
明かりの消えた部屋。
乱れた布団。
娘の姿は無い。
――逃げたか。
舌打ちをして外へ出る。辺りを見渡しても、しんと静まり返っており、その姿は見当たらない。
最悪、屋敷の外へ出てしまったのだろうか。
そりゃあそうだ。よく知らない土地に連れて来られ、よく知りもしない男に預けられたのだ。自分なら隙をついて一目散に逃げ出すだろう。
もしそうなれば、面倒事が一つ減る。
だが、今まで必死に築き上げてきた殿からの信頼も崩れてしまう。
それだけは絶対に避けなければならい。面倒だが探すかと中庭に降りようとしたその時、視界の端にかすかな衣擦れの音。そっと腰に下げた剣に手を伸ばす。
ゆっくりと視線を下に向けると、階段の下には月明かりが落ちていた。
その光の中、小さな影がうずくまっている。
両膝を抱え、震えながら、闇に押しつぶされぬように、娘は小さく息をしていた。
「……何をしている」
声をかけると、娘はびくりと肩を揺らし、逃げるように立ち上がった。
思わず手を伸ばすが、するりとかわす。だが階段を登る途中で足が止まり、娘はそのままへたり込んでしまった。
恐怖と安堵が入り混じった顔。
月明かりがその頬を照らしていた。
録嗚未はため息をつき、ゆっくりと階段を下りると、影を踏まぬように膝を折り、そっと声をかけた。
「……怖いのか」
娘は小さく縮こまりながら震える唇を開き、かすれた声で言った。
「……ごめんなさい、ごめんなさい……ごめんなさい」
その言葉に、胸の奥がきしんだ。
この土地の言葉など知らないはずなのに、何度も何度も繰り返す。ここに辿り着くまでのあいだ、どれほど口にしていたのだろうか。
「謝るな」
低く、絞るように言った。
だがその声も、意味も、やはり届かない。
録嗚未はそのまま黙り込み、静かな夜気の中で小さく息を吐いた。
中庭の木々が、静かに風に鳴る。
月明かりが二人の影を長く伸ばしていた。
春、山々の緑が柔らかく笑う頃。
娘――が録嗚未の屋敷に来てから、季節はもうすぐ一周しようとしていた。
隆国の厳しすぎる教育のお陰か、あれから少しずつ言葉も覚え、こちらでできた友と呼べる存在がを笑顔にさせた。
侍女たちの会話にも拙いながらも返事を返すようになったに、録嗚未の屋敷で働く者達は皆、目を細めた。
あの時、暗闇に怯えていた姿は最近姿を見せなくなったが、いつも誰かを側に置き、自ら進んで行こうとはしない。
だが、口癖のように「ごめんなさい」を繰り返すのだけは、いつまで経っても変わることは無かった。
その日、録嗚未が異変に気が付いたのは、暖かな日差しが中庭に差し込む午後のことだった。
前日の大掛かりな練兵から帰宅して、倒れ込むように床に入ったのだが、翌日、中庭から聞こえてくる弾むような声に叩き起こされた。
「桃はいつなりますか?」
「そうですね、大きくなるまで三年程でしょうか。様、沢山生ったらどうしましょう」
「私、毎日桃を食べます! 一日三個!」
甲高い笑い声が部屋まで響く。流石にやかましい……叱りつけようかと中庭に出ると、中庭に備えた小さな池の畔に、二人並んで何かを植えている後ろ姿が見えた。
それは怯えて食事も満足に取らないに、物は試しにと桃を与えたのが始まりだ。鼻腔に広がる芳醇な香りと、瑞々しく滴り落ちる果汁、そしてその甘さ。丸い目を更に丸くして必死に頬張るの姿は見物だった。
それから何かあると、仲のいい侍女に桃をねだっているのだ。
あの怯えていた娘が楽しそうにしているなら、それでいいか。踵を返し、大きく背伸びをしてもう一度布団の中へ戻ろうとしたが、二人の会話の続きが録嗚未の耳に届き、思わず足を止めた。
「――――いいですね。ですが録嗚未様にもおすそ分けしなくてはいけませんよ?」
「一つ、なら……」
「俺の屋敷の! 俺が鍛錬をするために作った庭に! 勝手に桃の木を植えて何を言っている!」
からかうつもりで出た声は、思っていたよりもずっと荒かった。
「ご、ごめんなさ――――」
声を荒げ迫りくる録嗚未に驚いたは、立ち上がろうとした際つんのめり、池の方へと倒れていく。
考えるより先に身体が動いた。
腕を掴み、引き寄せる。あんなに軽かった身体から重さを感じる。それでも録嗚未にしてみればうんと軽い。
「池の側で遊んでいるからだ!!」
録嗚未はがこの屋敷に来てから一番の声を張り上げた。
怒鳴った自分の声が、思ったよりも鋭く響いた。
その瞬間、最近見せなくなった〝あの表情〟が、の顔に浮かぶ。
――やってしまった。
声を上げず、静かに涙をこぼすを強引に引きずり、池から遠ざける。
正直、庭先の小さな池に落ちた程度でどうということはないのだろう。
もし殿がこの池に落ちたとして、助けるだろうか。否、殿はそんな間抜けではない。
だが本当に、勝手に身体が動いていたのだ。
相変わらず「ごめんなさい」しか言葉にしないに、苛立ちが募る。
自らを落ち着けるように、深く息を吸い、大きく吐き出した。
どうしたものかと見下ろすと、頬に土が跳ね、口元には泥の筋がついている。さらに涙で顔はぐちゃぐちゃだ。
思わず吹き出しそうになるが、怒鳴りつけた手前、笑うことはできない。
「その……なんだ……だからな」
大きな指で、大粒の涙をぬぐう。
「俺のデカい身体じゃ一個は少なすぎるだろ」
はきょとんとした顔で録嗚未を見上げた。
「桃は沢山生るんだよ! だから俺にももっと分けろ!」
そう言いながら、録嗚未はそっぽを向く。
の頬が、少しだけ笑みの形にゆるんだ。
――これでは、ただの食いしん坊じゃないか。
「桃の木……植えていいのですか?」
「好きにしろ!」
ああ疲れた。
今度こそ酒をたらふく飲んで、二度寝を決めてやろう。
踵を返し、ずんずんと部屋に向かう録嗚未の背に、「あ……」という小さな声が追いかけてきた。
「あ……ありがとう、ございます」
小さく、微かにだが届いた言葉に、録嗚未の心が、ほんの少し軽くなった。
季節は春。遠くに見える山々は長く冷たい冬から目覚め、柔らかく包み込む。
どこからか舞ってきた桃の花が、の濡れた頬を優しく撫でた。
花開花落より